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19. 新しい命がもたらすもの

私は常に疑いを持っていましたが、今では信じられる立場にあります。私の霊的なニーズすべてが一挙に満たされたという事実を、神の働き以外では説明することができませんでした。神の子として、私はこの関係を模索し、それに基づいて生きることを始めました。今日、私はこの2003年6月7日を、新しい命のスタート地点として宣言します。それは私のエゴの部分的な死の始まりであり、「私は神である」という私の誤りが、「私は神の子である」という真理と置き換えられました。

私は2003年6月7日以来、ようやくアクセスできるようになった神の愛を実践することを学んでいます。誰もが愛する能力を持っていますが、愛を欠いています。愛は自分自身で生み出せません。身体的なレベルでは、誰もが呼吸する能力を持っているものの、外部の源から酸素を得なければならないということを、私たちは皆、簡単に理解できます。私たちが「愛」という包括的な用語を使って示している霊的なニーズについても同じです。私は今、神と確立したつながりにより、神の愛を伝えることを学べるのです。私にとって愛らしく見えない人々にさえも愛を伝えます。また、これには「他者からの愛を待たない」ということも含まれます。

天の父と共に歩む道は、解放をもたらしてくれるプロセスです。しかし、私の中に残り続ける誤りが、このプロセスを難しくします。まずは困難を経験することで誤りの残りを認識できるようにしなくてはなりません。そうすると、原因、すなわち自己欺瞞を自分自身に関する真実と置き換えられるようになります。これはクリスチャンの信仰の戦いです。なぜなら、自分自身について、どこでまだ自分を欺いているかについて、そしてどこで真実が嘘を置き換えなければならないかについての認識がなくては、完全には自由になれないからです。

この点において、救済に関する従来のキリスト教の理解には何かが欠けています。人間の霊の機能、自己制御、生来の誤りに関する人間の無知のために、クリスチャンは本質的に二つのグループに分かれています。この分裂は他の宗教や思想においても見られます。表面的には、私たちはこれを「保守派」と「自由派」として表現することを好みます。しかし、究極的には、あなたがその線のどちらの端に立っているかは重要ではありません。極右であろうと極左であろうと、あるいは穏健な中央であろうと、ただ同じ線上にいるだけだからです。あなたは、ある人を一つの方向に、別の人を他の方向に導く自己欺瞞を認識していません。しかし、それは依然として同じ自己欺瞞であり、その中で誰もが無意識に(そして一部の人にとっては意識的に)自分自身のものを求めているのです。そして、人は自分自身のために何かができると考えている限り、愛の法則を破っています。なぜなら、いかなる被造物も自分自身のためには何もできないからです。人間もそうです。しかし、心の誤りにより、人は自分自身のために何かをしていると確信しています。

イエス様は「私は神である」という偽りを十字架に釘付けにし、愛の法則の下で再び機能する新しい被造物、新しい命を創造するためにやって来られました。神とその全創造物のような、無私無欲の命です。

私は「私は神である」という考えを持って生まれました。2003年6月7日までに私が行ったことすべては利己主義に基づいていました。私はすべてを自分自身のために行いました。これは法則に反します。それまでの39年間、外面的には良く見えることも数多く行いましたが、動機は依然として間違っていました。無私無欲に見えたとしても、その行動は常に私が中心だったのです。2003年6月7日に決定をしたことで、交換が起こりました。私の以前の命は十字架に行き、私には新しい命、イエス様の命が与えられました。これが、愛の動機に基づいて行動する私の道の始まりでした。

誤った考え方からは利己主義しか生まれないと理解するのが重要です。真理からは愛しか生まれません。これは自然の法則が明らかにしています。ルカによる福音書6章44-45節は「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」といって、非常に簡単に描写しています。

十字架での交換を通して、私は過去39年間に対する赦しを経験しました。赦しは、罪の理由、利己的な行為が同時に取り除かれる場合にのみ起こります。これが心の誤り——またはイエス様がいう「悪いものを入れた心の倉」です。したがって、赦しは古い命を新しい命と交換することによってのみ達成できます。個々の行為の理由を取り除くことなく、各行為を赦すことは、神の正義と相容れないでしょう。このような理由で、旧約聖書では犠牲制度が使われました。そしてこれは、命の交換、行為の源を通してのみ、義認と正義があるということを明らかに示しています。

ここで示される命の交換は信仰に関する霊的な行為であり、最初は物理的現実において起こるものではないということはおわかりでしょうか。イエス様は新しい命を創造し、それは現実ですが、それはイエス様の再臨においてのみ、各個人が外面的に目に見える形で受け取るものなのです。そうして初めて、私たちは新しい命という現実へ完全に変化を遂げます。そして、私たちは実際に新しい被造物になるのです。それまでは、私たちは新しい命に対する信仰において生きます。そして、信仰を通してのみ新たな命を私たち自身の命へと移すことができるのです。

この信仰の交換とは、具体的に何を意味するのでしょうか? 信仰には実体が必要であり、霊にはそれを導く明確な情報が必要です。次の内なる態度二つが求められます。

  1. 過去に関する明確な良心。私は、新しい命では、私が決して罪を犯したことがなく、間違いを犯したことがないと信じなければなりません。もし私が古い命において殺し、結婚の誓いを破り、嘘をついたり、それ以外にも何かをしたりしたとしても、私はもうそれをしていません。イエス様が引き継がれたからです。古いものはもはや私のものではなく、今それはキリストに属します。それはイエス様が裁きの際に決定するでしょう。これが神の側からの赦しです。罪悪感の思いを持ち続けている人は、まだ命の交換を完全に信じていません。その人はまだ自分の古い命を自分自身のものと見なし、まだ自分のものであるかのように、過去の行為にしがみついています。つまり、すべてをキリストに明け渡していないのです。

  2. 私の過去は今ではイエス様のものです。「過去において、誰も私を害していない」というのが、心の中で認め、信じなければならない情報です。これにより、自分自身を他者の犠牲者として見ないようにするためです。私が経験したことや他者が私に行ったことが何であれ、それは交換を通してもはや私のものではなくなり、私に個人的に当てはまらなくなります。これが私の側からの赦しです。もし誰かがまだ私に何かを負っているなら、もし私が過去に誰かによって害を与えられたと思うなら、私はまだ信仰を通じてイエス様の新しい命を得られていません。

古い命とイエス様の新しい命の交換は、人間の問題すべてを解決します。これらの問題は、「自責」と「他責」という二種類にまとめられます。人は自分自身を自分の行為の犠牲者か他者の行為の犠牲者のいずれかと考えます。両方とも間違っており、自己欺瞞から来ています。そして、自分自身を自らの敵に仕立て上げ、自分自身の破壊へと導きます。

2003年6月7日はとうに過ぎ去り、私は信仰において前進しました。「私は神である」の残りは今、毎日、少しずつ消えつつあります。毎日、私は過去の日に関して自分を確かめ、どの源に基づいて生きたかを調べます。この確認はたいてい、自然の中で、天の父と共に行います。天の父は、どこに自己欺瞞があったかを正確に把握する助けとなってくれます。こうして、自己欺瞞を真実と置き換えられるようになるのです。私は自分の行動によって思考を、そして思考によって動機を、また動機によって、根本である、自分自身に関する嘘または真実を試します。具体的にはどこで自分自身を欺いたかを見つけ出し、この点で明確に欺瞞と真理を置き換えられるようにしなければなりません。私は自分がどこで神を演じているかを意識的に見つけなければなりません。私は、自分が神の子であると知り、新しい命を生きるにはどうすべきかを認識する必要があります。神の子として、私は誰かに仕えてもらったり、私のために何かを満たしてもらったり、何らかのニーズを満たしてもらったりする必要はありません。私は神から受け取り、この愛を伝えることによってのみ、自らのニーズを満たすことができるのです。

次の図は、信仰の戦いにおいて、人が嘘に囚われた状態から真理による完全な自由に至るまでの道を示しています。誰もがこの道を個人的に歩む必要があります。私が自分の写真を使ったのはそのためです。私は信仰を通じて、いつか自らの霊へと新しい命を完全に吸収したいと望んでいます。そうすれば、私の仲間である人間のいかなる行為によっても、私は他者に対して善行を強制したいとは思わなくなるでしょう。私は、すべての人を愛し、もはやいかなる形の強制も行わないような神の子になりたいと望んでいます。それが解放の目標なのです。

私はまだこの目標の道中にいます。そして、自らの行いではなく、信仰を通じて達成を目指しています。私の行いは、内面的な態度の外面的な証明にすぎません。私の善行は、悪行と同じく、間違った動機に基づく場合もあるのです。だからこそ、聖霊を通して支援してくださる、天の父の助けを借りずには達成できないのです。神を完全に信頼するその日が来るまで、私は人に対する信頼を段階的に減らしています。この状態では、私はもはや自らを欺くことはなく、心の中に掟が刻まれます。そしてこれはすべて、信仰の内面的なプロセスと神と私の間の連携を通じて起こることです。神は誰も制御したり強制したりしないからです。神に対する信頼を置けるのは、私たちだけなのです。したがって、救済は神と人間の連携においてのみ可能なのです。

まとめると、思考が生じる自己同一性は二種類だけです。つまり「私は神である」という嘘、また「私は神の子である」という真理のいずれかです。思考は無意識のうちに生じるため、どちらの自己同一性が源なのかを確認できるのは、思考が意識として現れたときだけです。したがって、自分が間違っているかどうかは、意識的な思考を通じて確認できます。そうして初めて、私は自らの思考を続けて「養う」かどうかに関する選択肢を得られるのです。思考が自己欺瞞に基づくものだとわかったら、その考えを止めるための措置を取れます。原因は必ずしもすぐにわかるとは限りません。こういった思考が嘘から生じるとすでに知っていたとしてもです。時には、無意識の嘘を突き止めるのに数日かかることもあります。そして、それを真理と置き換えたときにのみ、私はその問題から自由になれるのです。

私たちの内面と向き合うのは簡単なことではありませんが、これは自らを解放するための活動です。他者が私に対して何か悪いことをしたり、良いことを拒んだりしたからといって、私は間違ったままでいたくはありません。この誤りは私の人生を困難にします。誤りを受け継いだのは私の責任ではありませんが、神の恵みにより、私はこの嘘によって苦しめられないようにするため、何らかの行動を起こすことができるのです。

ある種の思考がどこから生じるのか、具体的な例を以下にいくつか挙げます。

^強迫的な思考:^常に嘘から生じます。衝動強迫の思考は常に間違っています。もしあなたが誰かに無理強いをしたいと思ったり、怒ったりしたら、それはあなたの間違いです。もし誰かに対して腹を立てたら、自分自身を破壊することになります。自分の思考をコントロールできず、感情的に行動したら、あなたは抑圧の影響を受けているのです。衝動強迫の思考が生じたらすぐに、自分は間違っているのだと注意を促す努力を意図的に行いましょう。その問題に関して、あなたが実際にはどれほど正しいかは関係ありません。他者の行動がどれほど間違っているかも関係ありません。抑圧は常に自己欺瞞の結果なのです。

^恐怖の思考:^常に間違っています。恐怖を感じたらすぐに、「待て、私はどこで間違っているのだろうか? また神を演じているのだろうか?」と自問する必要があります。恐怖は、自分の制御や管理下にない、何か否定的なものを避けようとするときに生じます。誰もが、越えることのできない自らの行動領域を定義し、持っています。これは物理的なレベルでは認識しやすいでしょう。コンクリートの壁を通り抜けようとする人はいませんが、開いているドアを通じて部屋に出入りします。物理的な世界では、越えることのない境界内に留まろうとします。しかし、心の誤りがある場合、霊的な枠には気づきません。そのため、不可能なことを試みます。つまり、制御できないものを制御しようとするのです。これには、母、配偶者、子供たちの人生、さらには自分の人生が当てはまります。恐怖は、誤りに気づき、その根本を探る助けとなってくれます。誤りが見つかり、真理と置き換えられると、恐怖は消え去ります。

^体の圧力:^自己欺瞞の結果です。体は無意識の否定的な思考にすぐに反応し、誤りを示します。この場合は、間違った思考が生じた原因を自分自身に説明し、そのような思考の追求を止め、その代わり、真理について考えるようにすべきです。

^罪悪感の思考:^非常に有害です。罪悪感の思考は、私たちが間違って行動したときに別の選択肢があったという誤解から生じます。この思考は、間違った行動の結果が否定的だという理由で生じるのであって、必ずしも私たちがその行動について悔やんでいるからではありません。ここでの誤りは、私たちの行動の結果として損失を経験したというものです。また、私たちは何も失うことがないはずなので、自分自身を責めなくてはならないということを、誤りは示唆します。もし自分が神であれば、自分自身と他者の両方を非難できます。被造物は自分自身(また他者)に対して判決を下せないため、被造物に罪悪感の思考が生じることはありえません。また自らを神の子と見なしていたら、個人的な損失を被ることもできません。

^孤独感:^偽りの結論です。自分は神の子であると認識していたら、孤独を感じることなどあるでしょうか? 「私は孤独だ!」、「親類は皆死んでしまった」、「親類と離れ離れになっている」、「自分独りで子供を育てている」、「助けてくれる人が誰もいない」といった考えが正しいはずはありません。こういった思考はあなたを落ち込ませ、体に害を与えます。孤独感の思考は「他者は私のために存在しなくてはならない」という誤解から生じます。心と体はこのような間違った思考を止めるため、私たちを助けるべきです。私たちは決して孤独ではありえません。神が常に存在するのです。神の存在を認識していたら、自分は孤独だと考えるべきではないでしょう。

^拒絶:^自己破壊の思考を強めます。神として、私たちは崇拝を求めます。その望みを拒否されても、認めることができません。他者が私たちを褒め称え、認めてくれないと、私たちはそれを個人的な損失だと見なします。しかし、同胞である人間に対し、このような要求をする自分は一体何者なのでしょうか?

両親が子供を拒絶すると、子供はそれを大きなトラウマとして認識します。これにより、影響を受けた子供はその人生において、多くの問題や病気を抱え、非常に困難で痛ましい道を歩むことになります。神の恵みや、両親やその他の人間は自分に対して何も責任を負っていないという真理の認識なしでは、私は段階的に自らを破壊する運命にあります。したがって、私たちは自分自身に関する真実を知り、他者に対する個人的な要求はすべて不当であると気づくべきです。私たちの両親が(時には大きな)間違いを犯したという理由による自己破壊を防げるのは真理だけです。

^絶望の思考:^間違っています。この思考は、自分は将来を計算できるという誤解から生じます。神である自分はこの状況がどう展開するか知っていると思うために生じるのです。しかし、私は本当にそんなことを知っているのでしょうか?

出口がないという思考は、多くの人たちをうつ病や自己破壊、さらには自殺に導きます。助けとなる認識として、「自己破壊へ導くものすべて、否定的な感情を引き起こすものすべてが、真理とは対応しないものである」という点に、私たちは気づかなくてはなりません。どこで自分自身を欺いているか、すぐに気がつけなかったとしても、出口がないという思考を抱くのは止めるべきです。私たちを正してくださいと天の父に助けを求めれば、父は救いの手を差し伸べてくださいます。神は私の代わりに考えることはできませんが、私が受け入れさえすれば私を自由にしてくれるような、適切な情報を与えてくださいます。

特定の状況が私たちに否定的な反応を起こす原因となるのは紛れもない事実です。その一方で、喜ばしい反応を起こす原因となる状況もあります。では、このような喜びや快い感情が真理から生じているのか、それとも嘘からなのか、私たちはどうしたらわかるのでしょうか? 心が誤っていても、何かを個人的な利得だと判断したら、私たちは常に喜びを感じるはずでしょう。その瞬間には、この反応は体に害を及ぼしません。この利得を失って初めて、体に害が生じるのです。

これは、肯定的な感情を持っている場合、私たちは自分が真理の中にいるかどうか、確信を持てないことを意味します。誤りが利得と見なすものはすべて、体にとって快い電流を引き起こし、快適な感情を生み出すからです。しかし、もしその状況が悪く、私たちのニーズを満たさないものでありながらも快く感じるとしたら、そしてそれは私たちが当該の状況ではなく天の父に頼っているからだとしたら、私たちはこの反応が真理から生じているという確信を持てるでしょう。

私たちの救世主イエス・キリストは、その人生の困難な状況において、否定的な思考を一切起こしませんでした。このような状況には、敵意、偽りの告発、暗殺の試み、嘲笑を受け、そして殴られ、十字架に釘付けにされた状況が含まれます。イエス様は、自らに対して行われたどの悪に対しても、内なる抵抗は一切しませんでした。加害者たちが天の父に向けてこのような行為を行っており、父が不正を裁くだろうと、イエス様は知っていたからです。結果として、このような困難な状況でもイエス様は常に肯定的な感情を持っていました。決して、自分の考えを通じて自らの気分を害するようなことはしなかったのです。私のこのような考え方をしたいと強く望んでいます。私はそのために努力しており、本書を読んでいる方にもそうしていただければと望んでいます。

しかし、私たちの真の自己同一性もまた、ある種の否定的な感情を生じさせるものです。例えば私たちが時々泣く必要があるのはこれが理由です。イエス様の人生にも同じことが見られます。では、本当に否定的なものと、否定的に見えるものは、どうしたら区別できるのでしょうか?

ここでも、嘘と真理を分離できるようにするため、明確な基準が必要です。私たちの反応は潜在意識において始まるため、その効果を使って反応が真実または嘘のどちらから生じているかを判断できます。その際、自分から制御を奪うものは自己欺瞞から生じているという規則が適用されます。否定的でありながらも、自分から制御を奪わないものは、真理から生じるのです。

私は自分の動機を確認する必要もあります。それは私に関する動機なのか、それとも天の父に関する動機なのかです。また、無私無欲の状態でありながらも否定的な感情を認め、感じることもありますが、それは神の創造物が破壊されていることで、神に対して持つ真の思いやりから生じるものなのでしょうか? しかし、それが自分自身に関する動機であり、自己憐憫に陥っているとしたら、これは常に誤りから生じるものです。それは私たちを破壊するからです。違いはすぐにわかるとは限りませんが、時と共に自己認識の練習を積むことで、誤りから自分自身のために何かを追求しているのか、それとも天の父とその創造物のためなのか(つまり、真理を基に考えているのか)、よりはっきりと区別できるようになります。

真理においては、ルカによる福音書23章34節で救世主が「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と述べたように、私たちは行われた不正、暴力、財産や子供たちの奪取などを認め、さらには加害者に対する思いやりすら感じられるようになります。この態度は真理における完全性の実現が求められます。私はその実現を信じており、いつかそのように生きられるようになりたいと望んでいます。

神の子としての正しい自己同一性により、私は自分の考え方を完全に変え、時間と共にすべての問題を解決できます。すべてを単一の点へと還元できる、すなわち人の出発地点へと還元できるのは良いことだと思います。その人の自己同一性が出発地点です。これは人の人生において、最も重要な点なのです。

最終的には、この点を理解し、偽りの自己同一性を伴う古い命を捨て、神によって生み出された新しい命と交換するという決断を自信を持って行うのが鍵となります。誰の霊も強制して何かをさせることはできません。誰もが、信仰を通じて、自発的な達成を望むことができるだけです。そしてこれは良いことなのです。創造主は私たちを自律した存在として創造されたからです。

私たちの選択肢は一つだけ、すなわち古い命を去ることです。しかし、古い命を改革し、改善しようとする宗教や思想の例に従うべきではありません。人間の内側に問題があるのに、外観を重視するのは解決策にはなりません。人は、古い命の苦悩に嫌気がさして初めて新しい命を受け入れるでしょう。そしてそれは、自分の古い命では何もできないと確信を持ったときなのです。私たちは自らの最も内なる存在において、信仰を通じてのみ得られる、新たな命を必要としています。人のニーズは内部にあるため、内部でのみ解決、回復が可能なのです。外的な変化はまったく不十分です。汚れが内側にあるとき、ボトルの外側を洗うのは賢明ではありません。それではボトルはきれいにはならないからです。

終末の危機はすでに始まっていると私は確信しています。この危機は、人類を二つの位に分けるでしょう。金持ちと貧乏人ではなく、重要な人たちとそうでない人たちでもありません。こういった分裂はすでに存在しています。人類は、自由な人たちと囚われた人たちに分かれるでしょう。この世界における対立は、自由を中心としています。抑圧が行われ、個人の霊が真剣に受け取られない場合には、愛は存在しません。聖書のコリントの信徒への手紙二3章17節では、「ここでいう主とは、"霊"のことですが、主の霊のおられるところに自由があります」と明確に述べられています。

私は内側で完全に自由となり、神の霊に従って生きることを決意しました。自由があれば、それをすべての人に与えられるようになります。また制限したり、指図したり、または上に立ったような態度を取ろうとはしなくなります。この状態は、真理の中に生きているという明確な証拠です。愛があるところには自由があります。恐怖は根絶され、もはや生じなくなります。その結果、そのような人の行動は他者から影響を受けなくなります。どのような困難が現れても、愛の原則に忠実であり続けるのです。

私たちは逆境に直面することになりますが、その時、誰もが自らの本質を目に見える形で証明するでしょう。自由な人は、誰かが強制することではなく、自らの良心に基づいて正しいと信じることを冷静に、自信を持って行い、それを証明します。嘘を生きる人は、抑圧によって抑圧と戦うでしょう。力には力を、不正には不正を、嘘には嘘を、欺瞞には欺瞞を使って戦うのです。こうして、人は自らの心の誤りを証明します。抑圧と戦えるのは自由だけです。悪を克服できるのは善だけです。そして嘘を根絶できるのは真理だけです。

最終的に、二つのグループは明確に異なるでしょう。皆は誰の霊的な子なのかが明確になります。私たちは近いうちに、それぞれが最終的な決定をしなければならない点に達します。各人にはまだ、自由になるか、それとも生まれながらの死んだ命に囚われたままの状態を続けるかのどちらかの選択肢が与えられています。今日、あなたはどちらを選びますか?